その夏は、日本中が水不足だった。特に九州では厳しい給水制限が実施され、福岡市の一部断水は、平成6年の7月から翌6月までの約300日にも及んだ。連日、水不足に関する報道が続き、なるべく水を使わずに生活する情報があちこちのメディアで紹介されていた。
近所に、当時では珍しいミネラルウォーターを販売している会社があった。今でこそ飲料水の宅配は珍しくないが、当時は、「水を買う」ということは特に田舎では考えられなかった。当然、この会社も活気溢れる状況とは程遠く、会社の前を通るたびに「この会社大丈夫なんかな?」と、当の会社にとっては余計なお世話なことを思ったものだった。それが、この年の水不足で様相が一変した。全国から受注が殺到したのだ。この会社は一気に息を吹き返した。
日本中が水の大切さを痛いくらいに実感していた。
平成6年8月16日。
仙一の、ダンプでの水運びはそろそろ1ヵ月になろうとしていた。24時間体制で水を運び、睡眠も食事もロクにとることができない。まさに精も根も尽き果てた状態だった。「俺はできることは精一杯やった。もうどうにでもしてくれ」。
その日は、地元の神社の祭りの日だった。実行委員長だったので、祭りの準備をしながら、合間を見てあいもかわらず水を運んでいた。
夕方になり、そろそろ祭りに戻らなければならないという頃、空が曇り始めた。日が暮れるにはまだ少し早い、これはもしかすると...。
仙一はその時、田んぼにいた。空がだんだん曇ってきて雨雲らしき黒い雲に覆われるのを、じっと見ていた。いつもいつも期待をしては裏切られる、今度もそうかもしれないと思いながらも、祈りをこめて空を見ていた。
「こりゃ降るぞ」。