仙夜一夜物語

第20回「仙一、オーストラリアへ行く(2)」

 オーストラリアへの視察旅行は約2週間の日程が組まれていた。参加者は、仙一の他に約10人程度。流通業者、稲作生産者、農機・農業資材関係者などが参加していた。
 余談だが、このときに同じツアーに参加していた大学の先生と知り合ったことが、後に微生物農法の研究を始めるきっかけとなる。
 オーストラリアの稲作の歴史は、さほど古いものではない。なんとオーストラリアで最初に稲作を始めたのは愛媛県出身の日本人だった。武家の出で衆議院議員も務めた高須賀穣(ジョー高須賀)は1905年にオーストラリアに渡り、苦労をして政府の協力をとりつけ、オーストラリアに稲作の礎を築いた。オーストラリアでは「稲作の神様」などとも言われ尊敬されている。
 そんなことを知るにつれて、仙一はますますオーストラリアとの縁を感じた。「これはきっと、神様がオーストラリアで田んぼをやれと言ってるに違いない!」そんな風に思え、いよいよオーストラリアに対する期待がふくらんだ。
 まずは、オーストラリア北東部のケアンズに到着した。ケアンズの西にあるマリーバ市が最初の目的地だった。かつてはマリーバを中心としたクイーンズランド州でも一部稲作が行われてきたが、急激に衰退しているという。そんなマリーバの現状を視察した。
 全てが厳格なコスト管理をされていた。急激に稲作が衰退したのも、「米作りが割に合わなくなった」から。「米を作りたいから作る」のではなく、「利益の出る農作物を作る」、これがオーストラリアの考え方だった。利益の出なくなった米は見切りをつけられ、水田の全てがサトウキビ畑に転用されていた。
 次に、視察団一向は空路5時間半をかけて南部のメルボルン入り。市内のデパート、市場などを視察後、専用バスでオーストラリア稲作の拠点・リートンへ向かった。メルボルンから約600キロ。砂漠地帯を車で進んでいくと、やがて突然、砂漠の中に緑の大地が現れる。見渡す限りの牧草地で、どれだけ走っても、草を食む牛や羊たちが連なる風景は終わることがないかのようだった。
 やがて、リートンに近づくにつれて、限りなく続くかに見えた牧草地帯が変化を見せ始める。日本でも見ることができる穀倉地帯の顔に徐々に変わっていく。当時は真夏なので、出穂間近の稲で覆われた水田も見え始めた。確かになじみのある風景だが、日本とはどこか違う。
 あとで気づいたことだが、畦(あぜ)の作り方が日本とは決定的に違っていた。日本では整地を行い、きれいに長方形に整備された土地に畦を作り水田とするが、オーストラリアでは、等高線に沿って、つまり土地の形に添って畦が作ってあった。そのせいで畦がまっすぐではないのだ。なんとも不思議な光景だった。
 この、等高線に沿った畦と、丘陵一面を覆い黄金色に彩るひまわり畑。あれから10数年たった今でも、仙一の脳裏に鮮明に焼きついている光景である。
 コスト管理の厳格なオーストラリアで、稲作の中心地となっているリートン。砂漠の近くにあり、立地的には決して優れているとはいえないのに、オーストラリアでの稲作の9割以上はリートンで行われているという。当時、米の緊急輸入がスタートしオーストラリアからも米を輸入していた。タイ米などと比べて、食味のよさでオーストラリア米は日本でも高評価を得ていた。そんなオーストラリア米の中心地リートン。仙一の期待は、いやが上にも増していった。

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